2019年

4月10日:読解
以前に自分が書き、その後、学生が使っていたプログラムを久しぶりに見たら、、、まったく理解できなかった・・・読解しつつ改良を試みる。
4月8日:小論文
昨年度までは授業で「〇〇についてレポートを書いて提出せよ」というと、??なものが多く提出されてきて、悩みの種になっていた。自分の伝え方が悪かったと反省し、レポートと言わずに小論文ということにした。果たしてうまくいくだろうか?
4月5日:流行の源流を探る2:「今年は」
以前、卒論や修論の発表で「今回は…」というしゃべり方をするのは奇妙ということを海洋棟だよりに書いたところ、何人かの方から賛同があった。「今回は」それに類することを書きたいと思う。「今年は」である。「春コーデ」と同様アパレル業界の方が「流行」を語る際、頻繁につかう。「今年は淡い色がトレンドですね」、「今年は可愛いピンクがよく『出て』います」、「今年は白コーデが来てます」など、服装の流行が1年周期であるかのように思わせる表現である。よく売れた服装の色が2年前はシックな色、1年前はホワイト、今年は淡い色などの変遷がもし本当にあるのだとしたら、確かに「今年は・・・がよく売れている」という表現をつかうことに不自然さはない。でももし、服装を作る会社あるいはファッションデザイナーが「これから3年間、赤い服だけ多めにつくる」という方針を立てたと仮定してみる。この場合でもトレンドの1年周期性は現れるのだろうか?興味深い。赤がよく売れるから、赤を作る、だからますます赤が売れる?赤を作るから、赤がよく売れる、だからますます赤を作る?うーん、こう考えてくると、鶏が先が卵が先かの話になる。もしファッションコメンテーターあるいはモデルという肩書の人が、上記の因果関係の真のすがたを知っているのなら、是非とも情報をシェアしてほしいものである。もし自分たちが「今年はパープルがトレンドですね」と発言することがパープルの服がよく売れる原因になっているという自覚を持っているのだとしたら、そこに奇妙さを覚える。もし、その発言者がパープルがよく売れているというデータを事前に入手していたが、「今年はブラウンがトレンドですね」と自分が口走ることでブラウンの売り上げが上がることを自覚している可能性はないのだろうか?その倫理がどうこうということよりかは、社会の数学モデルとして面白そうである。
4月4日:『ティファニーで朝食を』カポーティ著
本屋に行くと海外小説コーナーに置いてあることが多いのでずっと前から気になっていたので読んでみた。そうか、こういう話だったのか。読む前はティファニーというのが何か分からなかったが、それは何となく優雅な場所であり、そこで男女が優雅に朝の食事を楽しむ、というようなイメージであったが、あまりそういう話ではなかった。ホリー・ゴライトリーがいつか実現したいと想っていた人生の象徴のようなものがティファニーという店なのだろうか。
4月3日:流行の源流を探す1:「春コーデ」
電車の中吊り広告に「春コーデ」という用語が目立つようになってきた。その記述によれば、春は「色んな柄アイテム、トレンドカラーが次々と出てきて『コーデ』が楽しくなる季節」、「チャレンジできる季節」らしい。う〜ん、、、まぁ、そういうもんなんでしょう。。。それはさておき、アパレル雑誌を目にしたとき私がしばしば気になるのが、新アイテムやらトレンドカラーが「出てくる」という表現である。あたかも、雑誌を編纂している業界の外からアイテムとカラーが発生し、その業界の内部に入り込んできている、という印象を与える表現である。雑誌とはその出てきたモノをみなに紹介する媒体にすぎず、それとは対照的な、多数の人間の「コーデ」を支配できるだけの力をもつトレンド発生場所が存在する。そこから「出てきた」のだから、みんなこれを着ようねっ、ねっ、と言っているように思える。そこに欺瞞はないのだろうか?つまり雑誌そのものがトレンドの発生場所ということはないのか?とするなら「今シーズンは〇〇がトレンド」と書かずに素直に「今シーズンは〇〇を選ぶことを提案します」と書くべきでは?今日もそんなことを電車で考えていたら乗り過ごしそうになった。
4月2日:勤務状況報告書
月に一度埋めて押印しては提出する行為を繰り返して何回目だろうか?

なぜか、今月の勤務から書式が大幅に変更になった。これまでは、日ごとの勤務時間数だけ書けばよかったのが、新書式では日ごとの勤務の開始時間・終了時間・休憩時間も書かないといけなくなっている。この報告書を書かなければならない理由は何なのだろう?と思ったため裁量労働制について調べてみた。この制度を運用する機関は「労働者に対する健康及び福祉を確保するための措置」を講じないといけないことがその理由なのだと分かった。機械的な書式の勤務状況報告書を毎月機械的に事務方に提出することが「健康と福祉を確保するための措置」になっている気がしないのだが。。。
4月1日:リフレッシュマン
時間とともに減衰していくと分かってはいるが、新入生の表情に満ちる生気を感じ取れるのはいいものである(新入生との顔合わせという機会は新入生のためということになっているが、教職員のためでもあるのだろう)。彼らとて1年後くらいにはそのフレッシュさの大半を失っているのだろうが、どうなるにせよ、生活に節目をつくり精神的フレッシュさを取り戻すことは重要、ということを毎年、18歳前後の人たちに教えられる。この3〜4月は惰性で仕事をしてしまった気がするから、立ち振る舞いだけでも気を付けてみよう。

さて。今日も短い時間ではあったが研究作業をすすめた。


3月29日:『春の嵐』ヘッセ著
『車輪の下』や『デミアン』よりも知名度は低いかもしれないが、今まで読んたヘッセの作品の中で最も深く心に染み入る感じがした。
3月28日:コンピュータを使う計算と数学
支配方程式の解をコンピュータの演算能力に頼って解くのか?あるいは数学的方法を使って解を導くのか?少なくとも私が所属している学術業界では後者は絶滅しつつあるが、自分は最近、両方を大事にしたいと考え、両方やっている。今日は後者に力を入れた。
3月27日:『銀の匙』中勘助
薄い文庫本だったので、電車の中でさっと読んでみた。前編は主人公の叔母に対する想いが切々と書かれている。後編は……最後の方の悲しいエピソードで泣きそうになってしまった。
3月26日:架橋
即興で人前でピアノをひくだけの技量も、壇上で大声で歌う度胸も、私にはない。それをやってくれた学生に深く感謝する。ただ突っ立って聴いているだけというのも演出としてどうかという気がしたから、ハンカチを目に当てて泣きまねをしてみたのだが、まねのつもりが少しだけ本当に泣きそうになったことを告白しなければならない。不思議なものである。いつぞやのオリンピックのときのテーマソングだった「栄光の架橋」という曲は、いっとき街中で流されていた。ゆずの声質が好きでない私はオリンピック期間中、「もう、他の曲にしてほしいなぁ」と思っていたのを覚えている。
さて、思いがけず久々にこの歌を聴く機会があったので歌詞を理系っぽく分析してみた。学生の歌った部分には確か下記の歌詞が含まれていた。

いくつもの日々を越えて辿り着いた今がある
だからもう迷わずに進めばいい
栄光の架橋へと…

「いくつもの日々」を何日間と想定するかで「今」の意味が異なってくるとは思うが、例えば大学4年間とする。その場合、「辿り着」くというのは「卒業できた」と解釈できる。とするならば次の「だから」は、「卒業できたから」と解釈され、続く部分と合わせると「卒業できたからもう迷わずに」となる。それでどこに進むのかというと「栄光の架橋」であるらしい。こう考えてきて疑問が2つ浮かんだ。
ひとつめ。「卒業できたからもう迷わ」ないことは現実的ではないと思える、という点。というのも日々、学生と接していると彼らは多くの迷いを抱えており、それを処理しながら生きている様にみえる。その迷いの量(程度)は、私の想像を遥かに超えていることがあり、それにこちらが気づかずに「気合が足りない」、「意識が低い」などと言ってしまうと人間関係に軋轢を生じることがある。実際生じたこともあった。学生がAとBどちらにしようか迷っている場合、「Aを選びなさい」と大上段に助言することは憚られる。Bを捨てることによるリスクの責任がとれないからである。「時間と手の数は限られているから、今はAを選び作業を始めよう」と言うしかない。このように「AかBか」の迷いを一時的に回避できたとしても、「CかDか」の迷いが胸中に宿る。こういうとき頭と胸はふらふらして使いものにならないから、その代わりに手(例えば字を書く)と足(例えば歩く)を動かすことが有効なことがある気がする。
疑問のふたつめ。進んだ先が栄光とは限らない、という点(栄光とは何かは考えると果てしない気がするので、さておく)。進んだ先(=会社、大学院等)を橋に例えるのは受け入れるとして、それが本当に栄光の架橋と呼べるものかどうか、分からないではないか。渡り始めたら腐ってて崩落するかもしれない、渡る価値のない橋かもしれない。栄光がどうかは橋を渡り終えないと分からないはずである。
ということで、歌って謝恩の意を示してくれた学生へ次の歌詞を贈る。

いくつもの日々を越えて辿り着いた今がある
だからなお迷いながら見ればいい
自分の足下を…

卒業生の将来に栄光あらんことを祈念する。
3月25日:のこぎりの歯
横国大に着任したとき、退職した教授が教えてくれた。
「N君、大学の研究室というのは毎年、学生が入ってきては出ていくでしょ。だから1年かけて学生を教育しても、4月になったらまたゼロからやり直しなんだよ。春から冬にかけて成果は少しずつ上がっていくけど、その学生が卒業したらストンとゼロに戻るから、それを1年ごとに繰り返すと、成果はギザギザの曲線に、のこぎりの歯みたいになるんだよね。まあ、頑張って」
今年も、のこぎりの歯の先端部分の季節がやってきた。
3月22日:卒業
卒業シーズン、出張シーズンということで海洋棟に人はほとんどいない。淡々と机上作業をこなすだけの日であった。
イチロー選手の引退報道は少々驚きであった。野球部に入っていたけどまったくものにならなかった自分からすると、イチローの打撃・守備・走塁は憧れ以外の感情はないのだが、そんな選手にもやはり「プロとしての終わり」を決断する時があるということを改めて知った。引退時に後悔の有無を口にするスポーツ選手は多いが、「後悔などあろうはずがない」という表現は、人より何倍も頭を使い努力をしてきた人だけが発せられるものなのだと思う。

卒業ついでにもうひとつ。乃木坂46の衛藤美彩さんが乃木坂を卒業するということも知った。推しというほどファンぽいことをやったことがあるわけではないが、何となくおっとりしていそうで、決して前面にしゃしゃり出る様なタイプでもなく、芸能人としては不器用な面が時折垣間見え、かと言ってまったく目立たないというわけでもない真面目そうな人ということで、乃木坂の中では、テレビ出演したときなどはつい見てしまう人であった。選抜になかなか選ばれない時期があったが、その後、努力によりコンスタントに選抜に選ばれる様になったことは熱狂的ファンでなくても知っていた。今後もご活躍を。
3月21日:短編小説
川端康成の『掌の小説』』という短編を少し読んでみた。『バッタと鈴虫』という作品が印象に残った。
『雪国』や『伊豆の踊子』など非常に有名な作品の多い著名な作家だが、私は川端康成の文章が苦手である。なんか読みにくくて、読み直す文がしばしばある。でも『掌の小説』は読みやすかった。
3月20日:『油断』堺屋太一著
愛読書のひとつを速読で再読してみた。石油輸入が断たれた日本がどうなるかを予測した小説。人間の仕事に関する緻密な記述に交じって、働く日本人男性の(陰的)心理の描写などもあり好きなのである。
報道で、著者が先月、鬼籍に入られたことを知った。大阪万博、経済企画庁長官などのご活動について、自分はほとんど知らないのだが、TVにコメンテーターとして出演したときの率直な物言い、垣間見えるお人柄に何となく好感を持っていた。ご冥福をお祈りする。『平成30年』は読んでみようか?
3月19日:ろんりてきな論文を書けるか?
週末に、パラグラフライティングなどの本をパラ読みしてろんりてきな文章の書き方についてざっと学んだ。「パラグラフ導入部」、「既知から未知へ」など参考になることは幾つかあった。
ということで論文を書きたいのだが、まだ結果が出そろっていないので計算を実施。条件を変えると結果も当然変わる様子を観察していると面白くなって、つい遊んでしまう。

3月18日:聖闘士聖矢セインティア翔
気になって仕方がない。私がこよなく愛している黄金聖闘士である蠍座スコーピオンのミロがかなりクローズアップされているらしいのだ。漫画本を大人買いしようか検討中。
3月15日:ろんりてき
午前中、依頼されていた査読を1件片づけた。「新規性が云々。考察の論理性が云々」と色々とコメント(≒イチャモン)を書いて送った。
そういえば論理的ってどういうことだろう?と思って考え始めたところで出張に出かける時間が来てしまった。週末に「論理的であること」について勉強しようと思いつつ電車に乗る。勉強した結果、午前中に読んだ論文が実は論理的だった、ということはないとは思うが。
3月14日:手帳が空欄な日
「あっ、休める」と思ったが、惰性で電車に乗ってしまう。
3月13日:コーヒー
激務の合間のコーヒーは最高であった。
3月12日:『原発事故と科学的方法』牧野淳一郎著、岩波書店
ある人に薦められて2年前くらいに買った本。限られた情報を基にして自分の考えで解を得ていく過程が詳細に記してあり大変参考になったので、再読。第1章に書かれている放射性物質量の見積のところは改めて感銘を受けた。
3月11日:カミングアウトというわけではない
昨年までは、「花粉症ですか?」と尋ねられたとき「いいえ…風邪気味なんです」と答えていた。
今年から、同じ質問に対し「はい…もう、ひどいものです」と(正直に)答えることにしている。現実逃避はよくないなと思ったので。
3月8日:地味な計算つづく…
プログラム開発作業。自作コードを組む研究は、結果が出ると嬉しいのだが、その前段階としての地味で緻密なチェック作業が避けられない。今はそういう作業の最中。

完成すれば、学生も交えて、よいシミュレーション研究ができるようになると期待して次の作業に進もう。
3月7日:『曽根崎心中』近松門左衛門
角川ソフィア文庫の現代語訳を読んでみた。併せて『冥土の飛脚』と『心中天の網島』も。生真面目すぎで誠実すぎる男、経済的問題を抱えた女、適度に親切だが微力な身内、極めて冷淡な少数の他人、中立を保つ不特定多数の他人、どの作品もこの5つのキャラクター群のせめぎ合い。これらのバランス関係の作品間の違いが、最終的な悲劇の着地点の違いと対応しているように思えた。筋道が単純なだけに、話の展開(因果)を追うよい訓練になった気がする。
3月6日:『論文の書き方』澤田昭夫
自分が担当する講義でリテラシー教育(もどき)をしているので、教養の為に手に取ってみた。う〜む、「名著」過ぎて大部分はしっくり来なかったのだが…序盤の「問題の場」と「トピック」との違いを説明している部分は勉強になった。
3月5日:『風立ちぬ』堀辰雄
悲しい出来事後の主人公の心理描写が何とも。こういう部分を電車の中で読んでいると、人前で落涙しそうになるので注意が必要である。
3月4日:『額田女王(ぬかたのおおきみ)』井上靖
週末読書。昭和の作品はあまり読まないのだが、以前に『孔子』を読んで文体が何となく自分に合う気がしたので井上作品を読んでみた。使命を全うしようとする主人公のすがたに魅力を感じた。よい読書であった。
3月1日:数値計算結果の良し悪しは真心で決まるような気がする
開発中のプログラムをチェックした。


2月28日:『ちくま評論入門』
高校生が、現代文、なかでも評論文の読み解き方を身につけるための本。読んでみている。この本は本当に高校生向けなのか、それとも私の読解力が高校生以下なのか?記述問題の模範解答が秀逸すぎる。
2月27日:かいぎ
午前に2つ、午後に1つ。なんとかこなした。今日の自分はよくやった。
2月26日:フガシティ?
なんかもう、この時期は研究室外の仕事が多く(多すぎ)て、自分の研究がほとんどできないので、いっそのこと研究を一切やらずに、一般教養を身につけることにした。んで、専門外の化学熱力学の教科書の適当なページを読み始めてみる。フガシティという量の定義を理解するのに苦戦。気体の場合は次元は分圧と同じなのか。んー、また明日学ぼう。
2月25日:「いつもお世話になっております。」
会議室で長時間拘束されるときには、要件を終えたらノートPCで内職を決め込む。とはいっても、仕込みが甘くてメールぐらいしかやれることは無かった。受信したメールのうち、冒頭に「お世話にな」という文字列が含まれるメールは何割くらいだろうと、無駄な検索と計算をし始めてしまった。。。
一時期、メールの文章はなるべく短く簡潔に、という方針で、この冒頭フレーズを意識的に書かずにいたが、最近は半々くらいに率が高まってきている。それを書かないからといって、別に「いまメールを送った人にはお世話になっていないよ」という意思表示をしているわけではないが、書かない方が自然と思える様なメールもある。その一方、自分がメールを受け取ったとき、これが書いてあると、不自然さ、他人行儀さを感じてしまうこともある。いかにも機械的に書いてます、という雰囲気を感じさせないメールを書きたいものだし、また、そういうメールを受け取りたいものである。