2018年

10月24日:犀の角のようにただひとり歩め
4カ月ぶりの更新。最近『ブッダのことば』(岩波文庫)を読んでみた。学生の頃一度買ったのだが読まずに捨ててしまった本なのだが、何となく思い出したので再購入してみて先週から読み始め昨日読み終えた。心が荒むことの多い日常生活のふとした合間をぬって、このようなありがたい言葉が並んでいる本と出合えることは幸運と思った。印象深いページの端を折ってみたら、かなりのページに折り目を付けることになってしまった。序盤に出てくる「…犀の角のようにただひとり歩め」というフレーズは特に印象に残った。再読しようと思った。
7月〜8月は雑用が多くて自分の研究はほとんどできなかったのだが、それでも1日1時間くらいずつはスローペースで進めていた。9月〜10月は比較的研究時間を確保できたので、次年度以降の構想も練りつつ作業を進めた。下に示したのは結果の一部。4年生と一緒に今年度中に煮詰めようと思っているテーマだが、4年生が興味を持ってくれるかは不明である。
6月29日:続パス回し
パス回しをされる立場の選手の心情を想像すると、おそらく「如何にしてボールを奪ってやろうか」と考えているに違いない。ポーランドの選手の動きを観察すると、最前線の選手が唯一パスの出し手に近づくべく動いていたのとは対照的に、それ以外の中盤・守備の選手はほとんど動いていないように見えた。素人考えでは、ポーランドが本気でボールを奪おうとするならカギとなるのは、これら後ろ側の選手がいかにふるまうかという点であろう。ボールを奪う戦略として考えられるのは
  • 1. パスを予測しカットする。
  • 2.相手選手数人をマークし近距離パスの出しどころを無くし、ボール保持者がドリブルせざるをえない、キーパーにバックパスせざるをえない、もしくはロングボールを蹴らざるを得ない状況を作り、そこをねらう。
  • 3.いっそのことフィールドプレーヤ全員でプレスをかける。
理想とピッチ上の現実とは異なるのだろうが、長年サッカーをやっている人間達ならば、パス回し破りの方策くらい編み出してほしいところである。パス回しが消極的だから云々という精神論的な議論をするよりかは、長く続けられるパス回し、あるいはパス回し破りの方策を練る方が建設的だと思う。
6月28日:パス回し
相手陣内へ攻め入らずに味方陣内でパスを回し続ける。。。サッカーにおいてこれが時間稼ぎになるのかは私にはよく分からないのだが、それが「消極的」だからとかなんとかで批判されるべきか否かはさておき、ポーランド戦後半のパス回しを観ていて思ったこといくつか:
  • 相手の足下にボールを蹴れること自体がすごい
  • 素朴な疑問。なぜパスを回し続けることができるのか(なぜボールをなかなか奪えないのか)不思議ではある。
6月27日:空気のよどみ
海洋棟3階には空気がよどみがちな一角がある。そのよどみを是正するために換気扇の設置を業者さんに依頼した。その業者さんが現場を見て色々と案を提示してくれた。通気口や換気扇の機能などについて勉強になることも多かった。
6月26日:「出た」
昨日、文学のことを書いたので今日も。昔から思っていたことなのだが、文学史の教科書を読むと必ず「出た」という表現が出てくる。例えば「〇〇の時代に入ると、●●(作家名)や■■(作家名)らが出て、『△●』などの作品を世に出した」みたいな。私はこの「出た」の使い方が嫌いである。新進の作家が作品を出版してそれが多くの人に読まれる様になった状況を端的に「その作家が出た」と表現しているのだろうが、この「出た」を使う筆者(教科書の執筆者)の高慢さみたいなものを感じてしまうのである。あたかも「自分は文学史界の全体をくまなく見渡すことができる博学な人間で、この私が文学史界を闊歩しながら鳥瞰してあげている最中に、●●(作家)が地面から生えてくるように出現しやがったので、私はそれを摘み取って評論してあげた」の様な驕慢な態度を想像してしまうのである。
文学者や文芸評論家のような人に対する私の抱いているかなりの偏見だとは思うが、私は上記の意味で「出た」を使いたくないのである。
6月25日:自然主義?
週末から今日にかけて、ふと思い立って徳田秋声という作家の『あらくれ』という小説を読んでみた。調べてみた限り、徳田秋声という作家は近代以降の一時期に日本文学会で流行した「自然主義」を代表する作家とのこと。自然主義……?昔、文学史の期末試験対策でその用語だけ頭に詰め込んだ記憶はある。田山花袋や島崎藤村がその「主義」らしいことも知ってはいた。が、どんな主義かはまったく分かっていなかった。解説によると「現実を『ありのまま』に描写するリアリズム」なのだそうだ。うーん……、「ありのまま」に描写する流行があったしてにも、その流行が「主義」と称するほどのものなのか?分からなかった。非自然主義の小説では書き漏らされる微細な動作や感情も漏れなく書く(暴露する)みたいなことなのか?田山花袋の『蒲団』の最後に出てくる主人公の行為はその暴露ということなのか?非自然主義の小説家が『蒲団』と同様の題材をあつかえば女が使っていた蒲団を襖から取り出してその匂いをかぐシーンはスルーされて、例えばだが、
「男は女の使っていた蒲団をチラリと見たが、すぐに目をそらした。胸元から煙草を取り出そうとしたが煙草は切れていた。新しい煙草を買いに男は家の外に出た。胸にぽっかりと空いた穴を埋める煙欲しさに、男は煙草屋への道を急いだ」
みたいな感じになるのだろうか?

ただ、『あらくれ』はあまり面白くなかった。今度機会があったら同じく自然主義色の濃いとされている島崎藤村のあまり有名でない作品を読んでみよう。
6月22日:メールは必ずしも速達にあらず
今日もメールについて考えさせられることがあった。ある学生が居室に入ってきて…
ある学生「今朝メールで送った件なんですけど、今日中に〇〇しないといけないのですけど…」
   私「……えーと、すみません、たぶんまだ読んでないと思います。今読みますので、何時くらいに送信したか教えてください」
ある学生「△時□分くらいです」
受信フォルダにある多数の未読メールから該当のメールを見つけ出し
   私「あっ、ありました。ふむふむ、あー、この件は先日メールで回答しましたよ。それを読んでください」
ある学生「えっ、そうだったんですか。」
と言って学生はスマホをいじり出す。私が先日送ったメールを見つけた学生は
ある学生「ありました。ふむふむ、そうなんですね。分かりました。じゃっ失礼します」

この学生も私も、他人から送られてきたメールはすぐには読まなかった一方で、自分が他人に送ったメールは相手がすぐに読むと思い込んでいた。この類のことはメールに限らないとは思うが、来ない返信をソワソワ待つ経験はしたくないものである。
6月21日:メール
6月15日に、「メールで用件を伝えること」について書いた。前2日休んでしまったので、溜まっていたメールの数が膨大となっていた。今日もメール処理デーだけで終わった。山下りがつらかった。
6月20日:午後に体調回復す
といえどもお休み。
6月19日:体調崩れる
なのでお休み。
6月18日:女主人公
週末に『ボヴァリー婦人』を読み終えた。有名な古典的小説だが、初めて読んだ。情欲を求めて生きた女の悲劇の物語であった(男としては複雑な心境になる場面多かった)。主人公の女が生きている間は物語は彼女中心に激烈に展開するが、主人公が亡くなった後の世は冷然と動いていく。そんな描写が印象的だった。以前に読んだ『アンナ・カレーニナ』(トルストイ)、『或る女』(有島武郎)も似たような展開であった。
6月15日:メールが無かった時代の用件依頼の方法に思いを馳せる
国際会議から帰ってみると、色んな用件がメールを通じて入ってきていた。いや正直にいえば、会議に出かける前にも用件はメールで入ってきていたのだが、出張前であまりにもバタバタしていて、そのメールを見ないようにしていたのだった。それらを順番に覗いて処理していく。。。こういう日は日が傾くのが早いなぁ。
6月11日:3か国語会話
国際会議で座長と研究発表を終え、会場の椅子に腰を下ろし、やれやれとコーヒーでも飲んでくつろごうとしたら、ある中国人の学生に「あなたの研究内容について質問したいことがある。会話してもよいか?」という趣旨のことを言われたので、一緒に部屋の外に出て会話し始めた。ところが、その学生は、英語と日本語が片言なので、言葉の端々に中国語を挟んだ話し方をしてくる。私は彼のニュアンスを汲み取ろうとして「あなたは今、〇〇ということをおっしゃったのか?」と何度も尋ね、その度に"Yes, Yes"という返事が返ってくるが、意思疎通の効率が非常に低かった。会話の内容自体は非常に単純なものだったが、意思疎通できたとお互いが感じるまで結構時間がかかった。私は彼と別れるとき、彼は"Thank you.Bye."と言ってくれたのだが、思わず「謝謝」と返してしまった。国際会議で時折ある楽しい体験である。
6月10日:北国
出張のため北国へ移動。さすがに肌寒い。
6月8日:研究会にあふれる欺瞞
金曜日午前中は研究室皆で集まって研究の進みを報告し合う場ということになっている。だが多くの学生は、「いかに研究する時間を取れなかったか?」「いかに研究を進めることができなかったか?」を丁寧に説明してくださる…気持ちは分からなくはない。ただ指導教員という立場上、こういう発表を聴くとどうしても或る感情が沸き起こってきてしまう。「1日って24時間(も)あるよね」とか言いたくなるが、言ってもしょうがないので、しばしば「まあ、頑張って」という言葉で会話を終わらせてしまう。
6月7日:こだま
昨日、こだまのことを書いたので追記。500系を東海道にも再び走らせていただくことはできないものだろうか?こだまでいいので。私は新幹線車両の中で500系が最も好きである(流線形形状と色使いの組み合わせがとっても好き)。山陽が羨ましい。
6月6日:こだま
出張のため西日本へ移動。敢えて「こだま」を使って車内での勉強時間を確保。静岡、愛知、岐阜を移動中に結構仕事がはかどった。
6月5日:出張のある日は難問には挑むべからず
いま、突き当たっている壁を越えようと或る問題を考え始めた。しかし答えが出ないまま出張のため外出しないといけない時間に。気持ち悪いまま駅まで歩くはめに。
6月4日:プリンター
今週の重要案件で必要な資料を印刷しようとしたら、プリンターから相次いでエラーメッセージが発せられていた。トナー切れ、紙づまり、紙切れ…。発狂しそうになったが堪えた(以前にセネカの『怒りについて』を読んでおいてよかった)。
6月1日:投稿ミス
今日もミスについて。論文投稿先の出版社からメールが来て、「早くリバイスせよ」との指示。「あれ、おかしい。4月に再投稿したはずだが…」と思って、投稿サイトにログインして調べてみたら、再投稿のログが残っていない。改めて再投稿してみると、どうやら原稿のMS WORDが重たすぎて受け付けられなかったらしい。そのことに気づかず再投稿した気でいたのであった。痛恨である。PDFに変換してファイルを軽くしてから再投稿したら、うまく行った模様。
今夜は早く寝よう。
5月31日:選択ミス
昨日、「ミス」について書いたので今日も。先日、西日本に出張したとき、新幹線の発車時間が迫っていたので、焦りながら在来線で移動していた。とある駅のホームで電車をまっていたとき、先に来た「快速」か?その1分くらい後に来た「新快速」か?の選択を迫られて、先に来た「快速」を選んだ。が、すぐに「新快速」に抜かれてしまった。。。こういうときに、後発を待つ判断力、勇気、冷静さその他もろもろが欲しくなる。新幹線にはギリギリで間に合ったのだが。
5月30日:初期値ミス
午前中は、拡散方程式の数値解法のプログラムを一通り書いてみて、午後に雑用が終わった後に走らせてみた。なんかおかしい。。。ああでもない、こうでもないと検討した末に、初期値を間違えていたことが判明。

今やっているプログラミングが一段落するまで、新たな論文執筆はできなさそう。ふんばりどころである。
5月29日:やたらと細かい記述と粗っぽい記述の混在
この日の話ではないのだが、先週『パルムの僧院』(スタンダール著)を読み終えたのだった。数世紀前の作家が書いた海外小説をよむとき、必ず感じることとして、時代背景(宗教、社会情勢、風土、文化など)を知らないと、よく分からない部分が少なくないということである。『パルムの僧院』もそうであった。読後感としては『赤と黒』のようが良かった気がする。『パルムの僧院』はもう一度読んでみないといけない。
5月28日:乗り換え改札
出張の用件が終わった後、新幹線で東へ向かう。JRの在来線から新幹線に、または新幹線から在来線に乗り換える時、新幹線切符の挿入とICカードのタッチのどちらを先にするかは結構重要である。もちろん、乗り換え改札口にはJRがその順番を親切に説明してくれているが、今回の出張では何を血迷ったか、その親切な説明を一切見ず、自分で理屈でこねくりまわし、「こういう順番であるべきだ」と思った順番でやってみた。幸いにも失敗せずに済んだ。。
5月27日:ゴッホの手紙
出張のため西日本へ移動中、『ゴッホの手紙』(ベルナール宛の部分)を読み始めた。有名な作家の書簡が書簡集として本になっている例はいくつかあるが、画家のものは珍しい気がする。手紙の内容は以外にも、あまり芸術家らしくないと感じられる記述が多い。その一方で、色の使い方に関して細かい配慮をしているという様な画家らしい記述もある。手紙の結びが和訳では「握手を送る」となっているのが、なんかいい感じがした、使ってみたい。
5月25日:補間
最近勉強している拡散方程式の数値解法では、「補間」が重要な役割を果たすので、改めて補間法に関する教科書を読んでいる。数値計算の分野では補間法は確立されており、教科書にもしっかりと書かれている。こういう手法を最初に考え出した人は偉大だと改めて感じた次第である。
5月24日:キルケゴール
この度ようやく、キルケゴールの『死にいたる病』を読み終わった。ある程度理解できる部分(「絶望」にはいくつかの種類ないしパターンがあるというような部分)と、まったく理解できない部分(冒頭の「関係」についての部分)とがあった。ずっと以前にキルケゴールの『現代の批判』を読んだことがあり、そっちは完全ではないものの、ある程度は理解できた気がしたので、『死にいたる病』もかなり理解できると思っていたが甘かった。これは読み直さなくては。
5月23日:拡散方程式
拡散項といえば2次中央差分、と以前は紋切り型に考えていたが、それとは異なる方法もあることを勉強し、その実装を試みている。今日、ようやくうまくいった。ただしまだ1次元。明日以降、3次元に拡張することを考えていこう。
5月22日:荷風
『ふらんす物語』(永井 荷風著)を読んでみた。学生のころ一度読んだが内容をほとんど忘れていたので、初読みのような感触だった。著者のフランス駐在体験を小説化したもの。淡々とした文章ながら、人との出会いや旅情などが生き生きと表現されている印象であった。好きな部類の小説である。明治大正時代の小説を読んでいると、その時代に生きてみたかったという気になってくることがあるが、この小説はそう感じさせるひとつ。この本によると永井荷風はフランスの前にアメリカにも行っていたらしい。その体験を基にした『あめりか物語』という作品もあるとのこと。買ってみるか。
5月21日:筋肉痛
週末に普段使わない筋肉をつかったので、腕を動かすたびにわきの下辺りがピリッと痛い。講義中、なるべく腕を動かさないようにしていたので、学生はやや不審に思ったかもしれない。
5月18日:迷惑メール
「迷惑メール」フォルダを見てみると迷惑ではないメールが結構あった。焦った。
5月17日:解けない4元線形連立方程式
4元線形連立方程式を紙と鉛筆で解く必要性にせまられたので、解を求めてみて元の方程式に代入してみると…満たさない。いかん。。。焦っているうちに出張のため出かけないといけない時間が来てしまった。
5月16日:メールチェック
ある人にメールを送信したら、数分後に返信が来た。自分はメーラーは常時起動させず、メールチェックは一日数回しかしないため数分後に返信できることはまずない。
5月15日:健全な顔
午後は仕事を休んで免許の更新に行った。今回の顔写真は、あまり犯罪者めいてなかったので良かった。
5月14日:付せんの付けすぎ
マルクス・アウレーリウスの『自省録』を読み終わった。肝に銘じておきたいと思う箇所に付せんを付けながら読み進めたのだが、おびただしい数の付せんが付いてしまった。
5月11日:『豊饒の月』シリーズ
三島由紀夫の『豊饒の月』シリーズ全4巻を読み終えた。何十年も前から読みたいと思っていたのだがボリュームの多さに敬遠していた。この春、一念発起して読んでみたのであった。第1巻『春の雪』を読み終えた後、清顕・聡子ペアを応援したくなった自分がいた。清顕は死んでしまったけど、せめて、「まだ清顕への想いがある」ことを本多に告白する場面があってほしい、と願いつつ第2巻『奔馬』、第3巻『暁の寺』を読み進めていった。しかし、第4巻『天人五衰』の最後の最後で、こともあろうに、その聡子から、ああいう発言が出るとは……。衝撃であった。『天人五衰』の最後の文は有名なので知っていたが、今回の読書で初めてストーリーに沿って読んた。よい読書であった。
5月10日:海外危機管理
学会発表やインターンシップのために学生が海外へ行くことが当たり前になっている状況で、海外渡航における危機管理について基本的なことを知ってもらうという講義が開講されたので、仕事として聴講した。「パスポートのコピーを取って携行すべし」という点はなるほどと思った。
5月9日:拡散方程式
ふと、拡散方程式の数値解法を改良してみようと思った。大学院生のとき以来、拡散項に対して使ってきているお決まりの伝統的解法がある。文献を調べてみると新規アイディアは出ている様なので、勉強してみることを思い立つ。
5月8日:城
カフカの『城』を読み終わった。以前にカフカの『変身』、『短編集』を読んだ時にも感じた独特の世界観と読後感。ただ、カフカの作品は読み切れていない部分が多い気がする。数年後にまた読もうと思う。
5月7日:普通の月曜日
ゴールデンウイーク明けは通常、気持ちの乗りがすごく悪いのだが、今年は仕事したので、今日は普通の月曜日と同程度に、気持ちの乗りは「やや悪い」程度で済んだ。講義は淡々とこなした。
5月2日:倫理
今年度から細々と始めた文理融合(文:理=7:3くらい)型の研究の参考にと思って、高校の倫理の教科書を読み始めた。哲学、文学、思想等に関する内容の充実ぶりにびっくりした。自分が高校生のとき、倫理の教科書って配られた記憶すらない。
5月1日:講義なし
大学全体の方針として、今日と明日は講義をやらない、ということらしい。だけど、講義をやる祝日はある。いいのか悪いのかよく分からない。
4月27日:同値ではないのか?
金曜日午後は早々と帰宅しようと思っていたのに、「数学的には同値な式であるのに、変形前の式を使うと数値計算がうまくいき、変形後の式ではうまくいかないという問題」が立ちふさがった。できれば金曜日はこういう問題には遭遇したくないものだが、仕方がないので、頑張って取り組んだ。理屈の背景にあるものが見えた気がしたので、プログラムを書き直したりして、試しの計算を走らせてみる。
4月26日:水のように
『老子』を手に取ってパラパラと読んでみた。「道」という表現が頻繁に出てきて、あまりガツガツするな、水(液体?)のように柔軟に変形でき低いところに収まるような生き方をせよ、というようなことを言っているのだと思う。最近、雑務で心が荒むことが多いので、いい時期にいいことを教えてもらった。連休中にちゃんと読んでみよう。
4月25日:地味な確認作業つづく…
プログラム2次元への拡張は、核となる部分はできた気がしているのだが、今一つ確信がもてないので、2次元用プログラムで1次元問題を2つの方向で解き同様の結果を与えるかを調べた。ここに張り付けたのは縦方向の潮位と流速。うまく行っている印象はあるので明日から次のステップに進んでみようか。
4月24日:等高線
この1年ほど、等高線を描くという作業をしていなかったので完全に手順を忘れた。以前から愛用している地球流体電脳ライブラリ(DCL)を使って等高線を描き、動画を作成するという、あまり知的でない作業だけで午後を費やした。作成中の数値計算プログラムの結果を使って等高線を描いてみた。ちょっとずつ改良していこう。
4月23日:結果が出ればすべて良し?
ハリルホジッチ前監督が再来日して記者会見に臨んだというニュースについて学生が話していた。学生曰く「日本代表ぜったいヤバい…」とのことである(ヤバいの意味は正確には分からなかったが)。会見のために再来日するだけ偉いと思った。
私はサッカーの内容はまったく分からないのだが、日本サッカー協会による解任理由の説明は納得し難いものがあったし、ハリルホジッチ氏の会見の様子を見て、私はハリルホジッチ氏にやや同情的な感情を抱いた。もともと「ワールドカップはハリルホジッチで行く」という心づもりで監督を要請したのだろうし、本番まであと数カ月の間に選手との意思疎通や戦術を組み直す様に、代表チームの現場を促すべきではなかったか、とサッカー素人の私は思う。ワールドカップの本番で結果が出さえすればよいのか?そうではない、という立場を私は取りたい。欧州遠征が失敗だった、というのなら、そこからのV字回復をいかに実現するかを検討するべきであったし、そのためには欧州遠征時点での監督・選手は不可欠である。日本のサッカー世界ランキングが40〜50位くらいであるという現状では、海外を知る人間の経験と知恵を少しでも取り入れるべき段階で、そのためにはハリルホジッチおよび欧州遠征のピッチ上で低いパフォーマンスを示した選手からの情報が必要だったはずである。解任により、そのための重要な情報源のひとつを失ったことは確かである。
4月20日:気を取り直して
昨日のぐったりも一晩眠れば、なんのそのであった。気を取り直してちょっとだけ研究した。
4月19日:ぐったり
移動、講義、その他もろもろで疲れてしまった。その他もろもろが重かった。。。研究する気起きず。
4月18日:移動
所用により飛行機で移動。夜は美味いもの食べた。
4月17日:武蔵野
昼休みに国木田独歩の『武蔵野』を読んでみた。この小説に美しく描かれている武蔵野における自然のほとんどは今はもう失われているのだとは思うが、武蔵野に縁のある自分としては感慨深かった。海洋棟の周囲の自然(というか、ちょっとした木立ち)はかなり色づいてきた。
4月16日:喉が痛い
90分の講義を終えると、喉が痛かった。確か先週の月曜日もそうだった。講義でしゃべりすぎなのかもしれない。
4月13日:もしドラ
乱雑の極みに達している本棚を少しでも整理しようと、午前中に本を移動させていると、「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」の文庫版が目に留まった(研究室教養図書として買ったのであった)。数年前に一度読んだのだが、もう一度読んでみようと思い午後、出張の電車内で読み始めた。電車では全部は読み終わらなかったので、帰宅してから最後まで読んだ。前読んだときもそうだったが、主人公みなみの親友が亡くなる直前、その母親がみなみに「実は余命が数カ月だったが娘は頑張って1年間生き永らえた」ということを言い、「娘の人生が意義あるものになったのはみなみのお陰」と伝えるところで、どうしても感情が高まってしまった(ベット上で不覚にも落涙)。
出張日ということで研究する時間は短かったが、作業は進めた。自由表面と流速の計算結果を精査。境界条件の処理がうまくいっているかを確認した。
4月12日:新緑
海洋棟は木立ちに囲まれており、今の季節は研究室からの眺めはキレイだと毎年思うのだが、建物の外から見ると建物のデザイン(無味乾燥とした白壁)が周囲の緑と馴染んでいない気がするのである。
プログラムを2次元に拡張するために、変数の受け渡しのような部分を精査していたら、これまでに書いたプログラムは無駄に長かったことに思い当たり、2次元化の前に1次元プログラムを短くし同じ結果が出るかを念のため確認


2次元化は明日以降である。
4月11日:プログラム作成
今日は数カ月ぶりに半日ほど研究時間を確保できた。本年度の卒論テーマになるかもしれない数値計算プログラムの準備をはじめた。浅水波の1次元伝搬というすごく単純な問題だけど、計算法を色々工夫してみた。うまくいっているのかは分からないけど、動画を作成する手順までは思い出した。明日から2次元に拡張し始めよう。

4月10日:小泉八雲集
前から読みたかった小泉八雲の短編集を電車の中で読んだ。生死を越えても結ばれることを願う男女の話が非常に印象深く、電車の中であやうく落涙しそうになった。
4月9日:海洋棟だより再び
研究室ウェブサイトを更新ぜすに、古い状態のままにしておくことのデメリット云々という話を伺ったので、海洋棟だよりを再開することにした。
そういえば今日は開講日であった。学生の出席率が異様に高かったので緊張して、途中言葉に詰まった。。